『旅立ち・18歳 沖遥』

いつだか観た、とある女優さんのデビュー作。開始そうそう始まる男優との軽いインタビューの後、その娘がどんな子なのかも良く分からないまま、即効で服を脱がされ素っ裸に。そして抜き差しだけは良く分かるセックス。その後は衣装とカラむ男優が違うだけのパコパコセックスが3連発。最後に一言、彼女からの感想があって、終了。


「デビュー作=初脱ぎ」って、女の子からしたら一大事ですし、死ぬほどドキドキするものだと思うし、だからこそ作り手側には、そんな女の子をしっかりと見つめて、カメラの前での初めてのセックスにドキドキしている女の子の鼓動を映像で伝えて欲しい。
…と、思うのですが、今は色々と状況が違ってきているのでしょう。だってデビュー作からいきなり3Pで顔射とか、もはや当たり前のようにあって、「デビュー作でぶっかけ」とか「デビュー作で野外露出」とか「デビュー作で中出し」とか平気でやらせてしまっているし、そんな行為に特に葛藤もなく平気で(なのかどうかは分かりませんが)こなしてしまっている女の子だって沢山いる訳で…


「日本のAVには、洋ピンにはない『情緒』と『繊細な心』がある」と、どこかの誰かが言っていたのは、いつの頃だっただろうか?


タカアンドなんとかのように、「欧米か!」とでもツッコミたくなる昨今のAVに嘆いている人。女優のルックスレベルは向上し、過激度も増したAVに、「でもこんなんじゃ抜けねーよ!」と不満を漏らしている人。女の子が大事に撮られていて、なおかつその事でエロ度が増しているAVを観たい人。


そんな人にお薦めしたい作品があります。今から6年前の作品なのですが…


『旅立ち・18歳 私を変えてくれませんか? 沖遥』 (芳友舎・Jamm) 監督 村岡哲也

内容はいたってソフトです。今観ても、当時観ていたとしても、ソフトです。
でも、デビュー作のドキドキ感と、女の子の裸にありがたみが感じられる、良質な「初脱ぎモノ」です。


何も映っていない真っ暗な画面に、ハァハァと呼吸する女の子の息遣いが聞こえ、次の瞬間、どこかの原っぱを走るピンクのダッフルコートを着た女の子の姿が映し出されます。ビデオカメラで自分を撮りながら、「沖遥。二十歳。職業はAV女優」と息を切らし自己紹介(この時点で見られるのは彼女の後ろ姿だけ)。そして場面は変わり、自然光差し込む部屋の窓辺で下着を脱ぎ、裸になっていく彼女のシルエットのみが映され(きっとこれがカメラの前での初脱ぎ)、全裸になった彼女が自ら描いた自画像(顔と身体、なおかつ上半身、下半身を分けて描くという細かさ)を見せ(でもまだ彼女の顔は見えてません)、その後でやっと「こんにちは。沖遥です」と、カメラに向かって自己紹介する沖遥が登場するという、なんとも絶妙な焦らしっぷり、「簡単には見せないよ」という監督の心意気を感じさせられる秀逸なオープニングです。


自分を描いた次は他人を描いてみようという事で、全裸のままで男優(大島丈)を写生するのですが、そのテーマが「勃起したおちんちん」の為、描きながらも大島さんが萎えてきたら急いで勃たせにいかなくてはならないというルールがあるのですね(笑)。この場面、ちょっと面白い事になってます。
その後の「初セックス」は、女の子に向き合って真っ直ぐにぶつかって行く大島さん(色んな監督から「デビュー作ならこの人」と信頼厚い男優さん)だけあって、彼女も自然に感じて濡らし、見ていて興奮を覚えるというよりも、安心感ある(無難とも言える)絡みという感じなのですが、彼女の本性のようなものは、まだ見えて来ない…


沖遥さんはハタチなだけあってとても瑞々しくピチピチした肌をしていながらも、ちょっと熟れたようなおっぱいがエッチでいいんですよ。「あやや」にも似た愛嬌を感じさせるカエル顔が可愛らしいのですが、「周りからよく冷たいとか言われる」と自身でも言っていたように、ちょっと近付きがたい風情というか、オーラというか、そんなものを身に纏っていたりもします。
「(普段は)好きだからする。エッチを楽しむんじゃなくて」というごく普通のセックス観を持った、ごく普通の女の子である沖遥が何故ビデオに出ようと思ったのか? 監督はそこに疑問を感じ、丁寧に丁寧に、沖遥の心に向き合っていきます。


ここまで読んで、「タイトルには『18歳』とあるのに、どうして『二十歳』と自己紹介するのだ?」と気付かれた方もいらっしゃるかと思いますが、実はそこに、沖遥がAV女優になった理由が隠されていたりもするのですね。
二十歳の女の子が18歳になれる。それが出来るのがAVという場なのだと、監督は考える。「沖遥」という女の子が何故今ここにいるのか、監督は考え抜く。彼女の中にある、18歳に戻ってやり直したいこと、そして何かを変えたいと思っていること。その(多分きっと本人にも分からないかもしれない)言葉になりきらない心情が、彼女を「知りたい」と見つめ抜く監督の眼差しによって、そしてその丹念な描写によって、伝わってくるのです。


面白かったのは、自分がエッチだと思う言葉で繋ぐ、彼女がひとりでするシリトリ遊び。
「おきはるか」の「か」から始まり、「貝殻、ライト、突起物〜」と続けてゆくのですが、このシリトリ遊びが後ほど再び出てきて、思いもよらなかったちょっといい場面に繋がる前フリだったりもするのです。


見ている人間に、欲情を誘うというよりも、「もっと足開いて。ほら頑張って!」という運動会のパパママ気分にさせてしまう自我撮りオナニーは、監督から「ダメだよこんなんじゃ。これじゃモザイクも入らないよ」と注意され、むくれながらも一所懸命考え、先ほどのものよりも数倍エロく生々しいオナニーを披露する沖遥が、モーレツに可愛らしく見えます。監督も「あっ、これいいねぇ」と合格点を出したその沖遥のオナニーは、単体女優の「魅せるオナニー」と比べたら、地味過ぎるほど地味だし、時間も短いのですが、「沖遥」という女の子が生々しく映っているから無償にグッとくるのです。


今作は、セックス2回・オナニー1回の60分作品です。
男優・田淵正浩さんとのセックスは、ピンクローターを使ったり、股を広げさせたままちょっとエグイ格好でフェラチオさせたりと、「魅せるセックス上手」な田淵さんのおかげで、1回目のカラミにはなかったいやらしい画と彼女の反応が見れます。木下的に興味深いのは、女の子をくすぐったり、フェチに走ったりと、(大島さんとは対照的な)「女の子に真っ直ぐ向かって行けない」田淵さんのセックスっぷりですね。(田淵さんの変態役の達者さは、きっとこのシャイで照れ屋な性格が反転して作り上げられたものなのだろうなぁと想像)


クリトリス」で終わった沖遥のひとりシリトリ遊び。夕焼けに包まれた公園で、「シリトリしませんか?」と田淵さんを誘い、今度はふたりでシリトリを始めます。テーマはやっぱり「自分がエッチだと思うモノ」。
この場面がいいんですよ。
田淵「すもも」、沖「モザイク」、田淵「クンニリングス」と続き、クンニリングスが分からなかったらしい沖遥が「聞いたことあるけど…どこだっけ?」と聞き返すんです。「フェラチオの逆ですよ。男の人が女の人のおまんちょを舐めること」と田淵さんが答えると、彼女がポツリと「くわしいな…」と呟く(笑)。なんか言葉の一つ一つにふたりの感性の違いが現われていて面白いんですよ。


AVでシリトリというと、私は平野勝之監督と志方まみさんの『わくわく不倫講座』でのワンシーンを思い出します。平野監督の「キス」に、志方さんが「好き」と返すあのシーン、良かったなぁ。。。


2つのカラミを終えた沖遥に「撮影どうだった?(君の人生にとって今回の撮影が)何かの役に立つのかねぇ?」と訊ねる監督。「メンタル面で…どうかな? 強くなれるような…人対人で(変わったかな)…うまく言えないんですけどね」と答える彼女が、この撮影で何を掴んで何を失ったか、私には想像することしか出来ませんが、田淵さんとのシリトリの時、「これね、ひとりでやってるとむずかしいんですよ」と言い出す彼女を見ていると、なんだか涙が出そうになります。

ひとりであれこれ自問自答していると、なかなか後が続かず、すぐに行き詰まってしまう。でも、ふたりでやればキスも出来るのだと。分からなかった事を覚えたり、自分が知らなかった相手の何かを発見したり、そしてその先には、言葉だけでは決して触れ合えない「キス」という胸ときめく素敵なものが待っているのだと。


彼女がAVに出て、本当のところは何を感じたのかは、私には分かりません。
でも、「ひとりでやってると難しいんですよ」と田淵さんに言ったその一言が、大きく何かを語っているのだと思います。