ドグマ・ノーマルKIM監督の現場

ということで、ノーマルKIM監督のD−1作品の撮影現場に行って来ました。

私がお邪魔したのは2日撮りのうちの2日目だったのですが、この日はオーディションで大塚さんと瞳さんが演じたあのシーンの撮影が行われる日。
現場にはさぞ張り詰めた空気が漂っていることだろう――と思いながら現場に到着すると、撮影の小道具として置かれていた金魚鉢で泳ぐ金魚を見て、「またウンコしたぁ〜」「朝から元気だねぇ」などと、屈託のないかけあいをする大塚さんと瞳さんの姿がありました。

『冷たい性欲の少女達』 

それが今作品のタイトルです。

決して気持ち良いだけではない、痛みと哀しみを内包したセックスという行為。セックスにすがる事でしか繋がれない、生きていけない、不毛な関係性。そんなセックスを通して描く、人の孤独。そして、KIM監督の想う「エロ」というもの。

榎本ナリコの『センチメントの季節』という漫画がありましたが、あれはどんなに「セックスシーン」が描かれていても、切な過ぎてオナニーが出来ない作品でした。
「セックスの哀しみ」というテーマ。文学や漫画の世界でなら、その深みのある物語が共感を生み、それこそ賞も獲れるような作品として昇華させることも出来るのでしょう。
しかし、KIM監督が撮るものはAV。手っ取り早くエロが見たい人がもっとも嫌うであろうドラマもので、そんなシリアスなテーマに挑んだのです。

な、なんというチャレンジャーかと…

KIM監督はこう話していました。

「最近思っていたのが、判り易いエロが多すぎるなと。あまりにも直接的というか、オナニーアイテムとして特化し過ぎてる。まぁそれが僕らの仕事ではあるわけですから、もちろん僕もそういうのを撮るけど、D−1でやるんだったらちょっと違うやろって。今しか出来ないものを撮ろうと。無謀な試みだとは思うけど、ドラマでやってみようと」

AVを観ている人達の中には、「とにかくハメシロ派」「モザイクは薄けりゃ薄いほど良し!」という方もいれば、「セックスに到るまでのプロセスこそがエロ」という方もいる。

KIM監督が撮ろうとしているのは、もちろん後者の作品です。

「セックスに至る過程としての心情や葛藤をどれだけ伝えられるか」
「役者さんが演じる登場人物の感情をセックスに結びつかせたい」

そのことにこだわって書き上げた脚本で、瞳さんは芝居の最中、自然に涙を流し、大塚さんはこれ以上はないという程気持ちの入ったセックスを魅せた。

撮影合間のインタビューで、瞳さんがこんなことを言っていました。
「架空のれんとひなと思って欲しくない」

この言葉を聞いてハッとしたのですが、AVで女の子の内面、素を見せるという名目で撮られたドキュメントものは多いけれど、女の子の内面を描こうとするなら、それはなにもガチンコのドキュメントだけが方法の全てではないのだなぁと。

瞳さんは現場でスリッパ代わりにディオールのサンダルを履いているような見た目通りのギャルですが、今までのビデオの現場(ギャル痴女とか凌辱系が多いのでしょう)で見せて来た「瞳れん」よりも、「この瞳れんが本当の私なんだ」という想いが、その言葉にこもっているような気がしました。